根はド文系な情報系大学院生による戯言

普段は人工知能を使って音楽について研究したりしてます。

幸せの本質

昨今人工知能が話題になっているが,資本主義社会によって世の中が物質的な意味で豊かになっていく一方で我々はそれに伴った幸せを享受できているだろうか?
答えはノーである.


そうでなければ,ここまで自殺者が毎年何万人も発生するという事は考えられない
自殺者という話でいうと,これは日本だけの話だけではなく世界的なものであると言える.(自殺大国と言われる日本ですら自殺率は世界の中で13位)


つまり,グローバリズムによって進んだ資本主義的な世界はアメリカ的な合理主義の元様々な場所,形において最適化を実行し,
世の中を住みよいものにした.
この合理主義は米国主義的な考えで言うと「合理的に生きられる事が幸せだ」という事になる.


しかし,待ってほしい.
人生にはゴールなど存在しない,人は必ず最後は死ぬからである.
つまり,人生とは過程を楽しむゲームであるはずなのに,その過程を合理主義によって合理化しよういうのは全くもってお門違いなのである.


また,合理主義は損得勘定を加速させる.
自分の周りの知人でも良く見るタイプの人間なのだが,恋人や愛する人を「金」や「地位」など目に見える尺度でしか見れない人がいる.
これを価値尺度として考え主張する人達は損得勘定から来る不安,つまり抜け駆けの不安から正しさを主張しているに過ぎない(オルテガの大衆批判においても言及されている)


本当の正しさは愛に基づくものである.
それはつまり,たとえ不合理,不条理な状況にあったとしてもその人を助けることができるか,ということである.


そういったある種合理性のない判断が人間の情動によって決まり,愛を生むのである.


と考えると,幸せも人間の一つの情動であり,合理的な判断の連続によっては到底生まれ得ない事は明々白々と言える.
勿論中庸の精神からいえば必ずしも合理的な判断が幸せを完全に阻害しているというわけではなく
極端な合理主義は危うさを多分に含んでいるということが言いたいのである.


もっと言えば当たり前の話であるが,幸せなどというものはその人の感じ方次第ではある.
ただ,その感じ方というのは健全な精神を以ってして出てくるものであり,合理的な判断の連続による非人間的な思考ではないと考えている.


そして上で述べた愛に関する話に通じるが,幸せを享受するために重視すべきものは,金や商品といった「富」ではなく、
人々の絆や帰属する場所、環境といった「財」であり


また,不信による依存ではなく、信頼による自立自尊を重視することが重要である.
これは愛を論じる上でもとても重要なテーマである.

 


これから人工知能が生活に更に侵食していく中で人工知能が個別事象においての最適解を導く可能性はとても高い.
その中で世の中の繋がりや社会が更に希薄化していき空虚な社会が訪れるのは間違いないが,その中で社会に抗う形で上記の財を大切にし,幸せを享受する為の土台として育んでいく必要があると思う.